【Ohayashi'primary】

花巻祭り囃子

Ohayashi'primary 」 (PDF_1.22MB)
primaryプライマリー は、初期の、基本の、の意で用います。

Ohayashi_p2 Ohayashi_p1 ≪由来≫
 花巻囃子の由来は定かではありません。
 すでに江戸時代には行なわれていた 「らしく」、花巻城主に北松斎(きた しょうさい) が就いた時代、文禄年間1592~1596に 「若侍たちによって」 花巻まつりが始められ、そこに大太鼓や小太鼓、笛、三味線が 「一団となったお囃子」 が入ったのを始まりとする説もあります。

Ohayashi_p3  然し、お囃子の一団とは武家の者だったのか? 武家の者がするだろうか? 武家の者でなければ、農民や町人が加わる筈がないから、それは芸者衆やその類の人達じゃなかったのか…、とすれば、それは、いわば、かぶき者の様な行いだったのではと思われ、由緒付けに故実を取り繕った故事付けに思えます。

Ohayashi_p4  また、同じく北松斎に由来する「観音祭」を発生にしますが、 江戸時代後期の文政年間 (1818-1830) に記された「二郡見聞私記」には、観音祭華やかりし江戸時代の花巻まつりを次のように伝えています。
「観音御祭礼は往古九月十七日の由、廿日に成けるもあるよし。又八月十七日に相成候事は俗云に此二郡北松斎武功によって御手に入、諸民快楽す。… 惣(総)祭事なる故 … 爰(ここに;それで)を以て伝ふ時は花巻三町は申すに及ばず、二郡在々よりも参詣は勿論、踊等にても相出し賑はしく祭るべき事也とぞ。」
 つまり、参詣だけでなく、踊なども登場したとあるから、娯楽の少ない時代に、農民、町人、職人にとっては、年に一度の楽しい祭りだっただろう、とされ、現在の慣行となっている観光花巻まつりとの関連を思わせます。

≪伝承 ≫
Ohayashi'Keiko_01  曖昧な由来は伝承にも影響し、「祭りばやしが以前のものとは違っているんではないか」 との指摘があり、 故滝田国太郎氏の調査、復元によって、1960/昭和35年に花巻市無形民俗文化財に指定され、保存会が結成されました。
 然し時は経ち、2001/平成13年には再び、運行する当時十数台の山車 (だし) は、それぞれがバラバラに太鼓をたたき、提灯もデタラメに振っていました。

Ohayashi'Keiko_02  そのため、里川口等では、太鼓は国太郎氏から、提灯振りは当時保存会で踊りを指導していた畑山女史から教わり、掲載する 「Ohayashi'primary」 を 2003/平成15年に作成し、国太郎さん亡き後は、丑年生まれの息子さんが後を継ぎ、稽古を積んできていましたが、それから時も暫らく経て、コロナ禍に入る前頃には又、国太郎氏のとは違う様になっていました。

Ohayashi'Keiko_03
原点復帰 return to origin

大太鼓と小太鼓が相互に調子を出し、
それに横笛と三味線が唱和する、
京都祇園ばやしの流れを汲み
優雅で情感あふれる花巻ばやしとともに、
各町内の祭師と呼ばれる山車設計者が
Ohayashi'Keiko_04 装飾を凝らして製作した山車が
町中をゆったりと練り歩く花巻まつりは、
城下町の名残をほうふつとさせます。

…と、花巻まつりは紹介されます。
然し、「Ohayashi'primary」 を作成した当時も、「太鼓は、各山車が自由にたたくものなのですか?」 と取材で質問されました。

05  また、「若侍たちにお囃子の一団が加わり始められた」 ものが、「京都の祇園ばやしの流れを汲む優雅さがある」 と言われても違和感を覚えます。

 コロナ禍は慢性化し、今年は再開の見込みもあるでしょうが、何年やっていようが未熟者が、数日そこらの調子合せだけでパフォーマンスしている様では、そのうち見飽きられればそれまでです。

 「山車が町中をゆったりと練り歩く花巻まつり」 を伝承し、伝統芸能として残すためには、きっちり 「型」 を覚え、「稽古」 の積み重ねが大切です。

 今を機に原点復帰し、しっかり 「おさらい」 する必要を切に感じます。

山車について